自立

私が高校生の時の北海道の最低時給は530円だった。

スーパーのレジ打ちで夕方5時から9時まで4時間働いても2000円ちょっとの収入なのに、レジを締めてレシートの控えの記録と実際にレジの中にある現金の残高に500円以上の差が出た時は、何度も数え直し、差が出た原因と思われる両替などを説明する始末書を書かされた。

 

着ぐるみのバイトの方も幾多の挫折を味わい、「お前クビ」と言われた事も有った。

お金を貰うという事の厳しさも責任を果たしてから辞めなくてはいけない事も高校1年の時点で身を持って学んでいた。

 

父の月給が40万円位で母の月給が50万円位だったので、ボーナスも合わせれば一千万どころじゃない世帯年収だったのに、お小遣いは高校1年の時が3000円、2年の時が3500円、3年の時が4000円で母方、父方どちらも親族の集まりが無くてお年玉がもらえなかったので、全然無駄遣いしないで貯金したのに高校の3年間で十万円しか貯める事が出来なかった。

 

バイクを買いたくて貯めていたが、関東で一人暮らしを始めた時の洗濯機や掃除機などの購入で全額なくなってしまった。

 

ただ運が良かったのは、私が高校を卒業するくらいの時代には、新聞奨学生制度が有った。

今はスマホで新聞を読む人がほとんどだから新聞奨学生制度はなくなっているかも知れない。

 

新聞奨学生は大抵、朝刊配達と夕刊配達をして、その新聞販売店に家賃を払ってもらったりアパートの部屋もしくは新聞販売店2階に住み、給料をもらってそこから水道光熱費や食費を捻出する。

 

1年続ければ60万円の奨学金を貰えるし、4年間続けられれば私立大学の学費が全額払えるほどの奨学金が貰える。

 

私は新聞配達ではなく、配達員達の朝食と夕食を作るまかない作りとして雇われた。

引っ越し費用も新聞販売店が出してくれたので、資金が無いけど実家を出る事が出来た。

 

母の手伝いで餃子の皮を包む事などは出来たが、実は味噌汁の作り方すら知らなかった。

店の奥さんが献立を考えてスーパーで買い物した物を冷蔵庫に入れておいてくれて、ちょっとしたメモみたいな物が添えられてる時にはその指示に従ったが、本当に最初の頃は料理の仕方を教えてくれた。

 

私は一人暮らしが始まった時に寂しいと1秒たりとも思わなかった。

私自身の悩みでしか泣かなくていい、私自身の人生が始まった!と胸が張り裂けそうなほど幸せな気持ちになった。

一人暮らしをする為に生まれてきたと思った。

 

私は知力の高い遺伝子を持って生まれたが、実家を出る事を目的に受験したので、大阪と山梨の公立大学と神奈川の専門学校を受験した。

仕送りなしが家を出ていい条件だったので私立大学は受けなかった。

 

ベビーブームの頂点に生まれたので唯一合格した専門学校ですら倍率28の厳しさで合格出来たのは奇跡に近かった。

 

入学式の後、新聞奨学生じゃない同級生達はそのまま親睦を深める為の飲み会に行った。

新聞奨学生は仕事を休めないので参加出来ず帰って配達員達の夕食を作った。

 

次の日登校すると、クラスメイト達はお互い呼び捨てやあだ名で呼び合っていて、既に打ち解けていた。

私の様な地味な女1人気にしなくても誰も困らない、そういう疎外感を感じた。

一人暮らしは寂しくないけど、同じスタート地点から出発出来なくて居場所がないのは寂しいと思った。

 

私は1人で居る事を寂しいと感じる事は今に至るまでない。

寂しいという感情を得るのは、親なり兄弟なりに愛されて育って、その愛してくれている相手が近くに居ない時に覚える感情なのだと思う。

親にも姉にも愛されずに育った私は、離れて寂しいという感情を覚えずに育ったのだと思う。

 

だけど身寄りの1人も居ない関東に身一つで来て、これから3年間ずっと同じクラスメイトと時を過ごすのにそのコミュニティに居場所がないのは違う種類の寂しさだった。

 

実習の時、私以外は夜まで残るのに、新聞奨学生の私だけに講師陣が「もう帰っていいぞ」と、別待遇されるのが嫌になった。

だから1年生の間に2年生、3年生分の家賃を貯めて1年生の終わりに新聞奨学生を辞められる様に長期休暇や土日にバイトをした。

本当は新聞奨学生はバイト禁止だったが、私の人生が制限されるのが嫌だった。

 

新聞販売店の関係者に見つからない様に違う駅まで電車で通ってファミリーレストランのウェイトレスをしたり、牛丼屋の時給が高かったので、朝刊配達が終わったら牛丼屋で昼までバイトして、一旦家に帰って束の間の仮眠を取ったら夕刊の仕事をして、それが終わったらまた朝刊配達の直前まで牛丼屋でバイトした。

本当に寝ないで働いた。

 

まかないを食べていた新聞配達員のうちの1人が遅刻が多過ぎてクビになり、その人と夕食をツマミに飲む為にまかないを食べていた配達員があいつと飲めないなら同棲してる彼女の手料理食べるわとまかないを解約し、別の配達員は旦那も子供も居る新聞販売店の事務のパートのおばちゃんと駆け落ちで居なくなり、まかないを食べる人数が少な過ぎるので私は配達に回されていたのだ。

 

でもまかないの時には配達員が食べ終わった頃に店のダイニングルームに行って皿洗いなどの片付けをしなくてはいけなくて拘束時間が長かったので、配達になった方がバイトをするには好都合だった。

寝ずに働いたおかげで1年生の間に120万円貯めた。

これで2年生、3年生の間は水道光熱費と食費くらいのバイトで済む状態にした。

 

だけどまだ成長期も終わってない十代の頃から、2週間2000円で3食食べなきゃいけないからふりかけと卵かけご飯と納豆と魚の缶詰で食いつなぐ、腐った物を腐っているとわかって食べてもお腹壊さない、手に入る物は何でも食べないと飢えをしのげない、そんな過酷な生活をしてでも自力で生きてた私に後に母と姉が名誉毀損にあたる仕打ちを畳み掛けてくるのだから、本当に選べない家族というものは呪いとしか思えない。

 

実家暮らしの人達は年賀状は自然に湧いて出る物だと思ってるけど私にとっては食事を犠牲にしてならやっと買える贅沢品だったので返事送らなかったら次の年から誰からも来なくなった。電話も75千円もするNTTの権利を店から給料前借りして3か月払いで返してまで引いたのに通話料という贅沢にお金を割く余裕はなかったので自然と北海道時代の友人達とは縁が切れた。

忙しくて話す時間があるなら寝たいというのもあった。

 

私は甘えなかった。

選べなかった環境が最悪なら自分の手で自分の未来を作るべきだと思った。

高校までは実家を出られない。

だけど高校を卒業してからの人生は全て自分の責任だ。

私だけでなく、みんなそうだと思っている。