思春期は嫁いびりと遺産争いの毎日

私が中学1年の12月に父方の祖父が亡くなった。

 

父も母も兄弟が6人くらいずつ居たけど、母方の親戚は正月の集まりを私が小学校中学年くらいの時にやめた。

恐らくお互いにお年玉を渡し合う出費が負担だったからではないかと思う。

ドイツで外交官をやってるおじさんやら自衛隊で偉い立場に着いたおじさんやら、学歴がなくても知力の高く経済的に不自由をしているとは思えない人達だったが、うちの母が北海道大学卒で国家公務員の父と結婚したことで金持ちとみなしているらしく、母に向かって「○○財閥」呼ばわりなどをしていて、私はその親戚を母の敵だと子供ながらに思っていた。

母方のいとこに会ったのは小学校の時が最後なので今会ってもいとこに気付くことは出来ないと思う。

 

父方の祖父が亡くなって、父方の祖母と同居することになった。

父方の祖父母の家は札幌駅から自転車で10分の好立地にあり、敷地も広かった。

家の周りに小さな畑があるくらいの広さはあった。

ただ祖父母が住んでいた家は古く、雨漏りもしたしお風呂も息を吹き込んで火を焚く様な家だったので、壊して新築の家を私達の両親が建てて住むことになった。

古い家を壊して新築の家を建て終わって引っ越せる状態になるまで、祖母は恵子おばさんの家に引き取られることになった。

それが決まった祖父の葬式の日に祖母は私の母に○○さん、すみませんね、よろしくお願いします、と殊勝で腰が低い態度でお願いしていた。

 

父方の祖父は右腕を汽車に巻き込まれて失っていなかったら大学教授になっていたはずの人だったらしく、百何十年前に生まれた人なのに英語と中国語がペラペラで理系も得意だったそうで、知力は遺伝なので父方の親戚も知力の高い人ばかりだった。

大学教授になれなくなり警察になったが、利き腕を失くしたので頭を使う仕事をしていた。

 

私の家族は私が小学校に上がる少し前に市街化調整区域のほぼ恵庭市の地域に引っ越していた。

私はベビーブームの頂点の年に生まれたのに、その地域が地盤が緩く建物を建てるのに制限があったことから住民が少なく、私の学年は全部で13人だった。

小中学校だったので小学六年生の教室の隣が中学一年生の教室で、職員室も保健室もグラウンドも全て小学校と中学校が共有で使っていた。

私が転校する中学2年の1学期の終わりには学年11人になっていたが、小学1年から中学2年までずっと同じクラスメイトと家族よりも長い時間を過ごしてきたから、転校は私にとって本当にショックだった。

母もその地域のお母さんたちと家を行き来して手芸をしたりデザート作りをしたり、日常的に友達付き合いがあった場所を離れなくてはいけなかった。

姉はもう高校1年生だったので、札幌の地域によって第一学区と第二学区が分かれているのに違う学区の地域に引っ越すので高校の友達が近所に居ない状態になっているので不便だったと思う。

 

引っ越した先は札幌の中心なので一学年7クラスもあり、今まで周りに居なかった公立高校に受かる頭がなくてお金で学歴を買う為には私立高校に入るしか選択肢がないようなバカが沢山いる学校だった。

コソコソ話やいじめなどはその頭の悪い生徒達が中心になってやっていた。

ほとんどの先生達が人間性のレベルの低い大人で、私は大人になることに絶望しか感じなかった。

親戚にしても先生にしても自分の欲求の為なら思春期の人間に絶望しか与えない人が圧倒的に多くて、大人になってからの人生は陰湿で陰険でくだらなくて辛いことしかないとしか思えなかったから、この時から40歳で死のうと思っていた。

前の学校が恋しくてたまらなかった。

 

でもそれよりも本当に辛かったのは、祖母との同居初日から始まった怒涛の嫁いびりだった。

家を壊して新築の家が完成するまで祖母を預かってもらっていた恵子おばさんが毎日「母さんはいばってていいんだから。兄さんのお嫁さんに土地と家を取られるんだからあの泥棒猫には厳しくしないとだめだよ」と毎日洗脳したらしい。

 

初日からおかずの一品一品全てに文句を言い、母の一挙手一等足を非難し、般若の顔して怒鳴り散らしていた。

祖母が洗面台の水を使った後、きちんと蛇口が閉まってないので水が出続けているので隣にいた母が水がまだ出ていることを指摘したら「余計な事言うんじゃない」と言って足を蹴られたり、母か食器棚に手を入れている時にわざと力任せに食器棚の扉を閉めて母の手に怪我を負わせたり、言葉だけでなく身体的ないじめも有った。

祖母が姉と口論になった時も祖母は姉に対して包丁を向けたらしいし、とにかく亭主関白だった祖父から解放され、愛する娘にお嫁さんは泥棒猫で敵なんだからいじめないとダメと言われたことでそれまで抑圧されてきた攻撃性や暴力が一気に開花したようだった。

 

嫁いびりだけではなかった。

あの家を私達一家が相続したことを不公平だと思っている父方の親戚は陰湿ないじめをしてきた。

ある日、父方の親戚の中で一番人間性の良いみっちゃんというおじさんが私達の家に来ている時に、私達の家に恵子おばさんからみっちゃん宛てに電話がかかってきて、みっちゃんに今から裁判所に来てほしいと言われてみっちゃんは素直に裁判所に行った。

そこで恵子おばさんに説得されたことに納得したらしく、裁判所から私達の家に戻ってきたみっちゃんは開口一番「兄さん、やっぱりおかしいと思う」と相続の配分に文句を言ってきた。

両親の説得で結局みっちゃんは恵子おばさんにそそのかされる前と同じ意見に戻って遺産争いで私達を苦しめるメンバーにはならなかったけど、そんな感じで遺産争いは本当に泥々していた。

 

中学二年の正月の集まりに私達の家が使われた。

私達は自分の家に他人の、しかも遺産争いで私達を苦しめてる敵が集まるだけでも耐えがたいことなのに、こともあろうに恵子おばさんは食べ物を運んだり配置したりする祖母に対して「母さんは働かなくていいんだって。この家にはいい年の娘さんが二人も居るんだから」と全員に聞こえる様に言った。

長男の娘に生まれたというだけで私と姉がこの家をもらえる恩恵に預かっているのだから当然私と姉が使用人の様に親戚のおもてなしに働くべきだと考えていることがわかった。

恵子おばさんの娘は私と姉の間の学年なのだから、いい年の娘さんが働くべきなら恵子おばさんの娘も働くべきではないのか。

その娘さんからその何年か前に聞いた話によると恵子おばさんが結婚したおじさんの家はすごく金持ちで親戚の集まりの時に札束を空中に撒いたりしていたそうだ。

貧乏ならまだしも金持ちなのになぜここまで私達の遺産相続に文句つけて取り分を多くすることにそこまで注力できるのだろうか。

とりあえず父方の親戚の集まりもこの回を最後に無くなった。

 

私達家族があの家を手に入れたことで得したのは父だけだ。

職場の北海道大学に自転車で通えるほど近くなったし祖母の自分の実の母親だから何のストレスもなかった。

それ以外、母は友達も居ないし作るあてもない上にいじめと遺産争いで毎日泣く日々、私は母が毎日私の部屋に来てその日あった嫁いびりと遺産争いと、仕事を始めてからは仕事の愚痴を私に聞いてもらって共感してもらうのが唯一の救いだったので私は毎日母の話を聞いて、思春期に大人の汚い争いの話に絶望し、母がこれ以上苦しまないように母の居ない所で毎日母を可哀そうと泣いて考えて考えて眠れなくなって中学二年の夏休みから不眠症になって30年以上経った今になっても治らない。

 

発達障害という概念が浸透し始めたのはここ数年で、その当時にはただの変な人、人間として成立してない人、というくくりで見るしかなかった。

父は嫁いびりの愚痴を聞かされてもそれの何が嫌か理解できないし、姉が共感能力がなくて「同じ話しつこいうるさいテレビの邪魔」と母の話を聞く耳も持たないせいで、唯一人間の気持ちがわかり共感能力が高く思いやりがある私が毎日母の話を聞き、不眠症になるほど母を可哀そうと毎日泣いて、しかも私は人一倍感受性が高いのに中学二年から高校卒業までという思春期を毎日家庭の事情で泣いて暮らしたのだ。

 

母を母親としてでなく一人の人間として評価し直すのが思春期に行う成長過程なのに、私は毎日母の為に泣いて母は私が守らなくてはいけない存在と位置づけしたせいで母の異常さに気が付くのが遅れた。

母に対するいじめのことを直接祖母に抗議すると5倍になって母に対するいじめが激しくなることもわかったから怒りを表面に出さないトレーニングも約5年にわたって強いられた。

泣いてることを知ったら母がもっとつらいだろうと人前で泣くこともコントロールして、高校卒業時には人前で怒りを面に出すことも泣くことも出来ない人間になっていた。

 

辛かった。

自分の人生を生きたかった。

だから仕送りなしでいいから家を出ると言って高校卒業と同時に身寄りの一人も居ない関東に新聞奨学生制度を利用して移住したのである。